ながいきや本舗 店長 松村恭子プロフィール | ながいきや本舗妊活情報サイト

ながいきや本舗 店長 松村恭子プロフィール

松村恭子

日本不妊カウンセリング学会認定
不妊カウンセラー
TCカラーセラピスト
出身地
山口県宇部市
(ユニクロの前身知ってます)
趣味
フラメンゴ、読書、SUP
仕事上心がけている事
いつも穏やかでいること。
キーッとならない事。
なかなか難しいですが…
なので、そうなりそうなときは深呼吸するようにしています。
座右の銘
人生ムダなし。全て必然。
生まれ変わったら壇密になりたいです!

しあわせの形はさまざま。
子供がいても、いなくても
幸せ。ただ、後悔しないようにしてほしい。

はじめまして。
ながいきや本舗の店長、松村恭子と申します。

「ながいきや本舗」と聞いて「長寿」を連想される方も多いと思いますが、実は私たち「ながいきや本舗」は、赤ちゃんを望まれている女性やそのパートナーのQOL(Quality Of Life)向上のために、商品や情報をお送りしているお店です。

そして、私たちながいきや本舗のモットーは「しあわせになること」。

もちろん、赤ちゃんを授かるということは、とっても素敵なこと。
世界共通、民族、国を超えて喜びが共有できる、唯一のことかもしれません。
だから、私たちもそのために全力でお手伝いをしたいと思い、日々活動しています。

でも、もし赤ちゃんが授からなかったら・・・

私たちは、それも「しあわせ」だと思っています。

しあわせの形はさまざまです。
子供がいてもしあわせ、いなくてもしあわせ。

とにかく、どんな形であれ、皆さんにしあわせになってもらいたい、そういう思いをこめて「しあわせになること」をモットーとしています。

なぜそう思うのか・・・それは実は、今の私がそうだから、です。

  両親のふるさと、山口へ

少し私、松村の自己紹介をさせていただきます。

私が生まれたのは、昭和41年、西暦で言うと1966年。
おわかりですか?そう、丙午です。
この年は「ひのえうま(丙午)の年に生まれた女性は気が強く、夫を食い殺す」として、出産が避けられた年で、出生率が増加していた中、ここだけがみごとにくぼんでいます。
でもうちの両親は、それをものともせず、私を生みました。

生まれたのは、実はあの有名な宝塚歌劇の宝塚ですが、3歳のときに両親のふるさとの山口に帰ったので、私の宝塚の記憶はほとんどありません。そのころは関西弁を話していたようです。
でももし、そのまま宝塚に残っていたら、私の性格も運命も全然違っていたものになったでしょう。

山口に帰り、再び山口を離れるまでの小・中・高校時代、私はまったくの田舎の子として、元気に育っていきました。とはいえ、運動が苦手でどちからというとインドア、娯楽もない土地柄でしたので、よく勉強していたように思います。それでも、熱狂したものがあります。

それが「山口百恵」と「ベルサイユのバラ」そして「ガラスの仮面」でした。
そしてこの3つは、その後の私に大きな影響を及ぼしました。

「歌」・・・そこそこ上手です。
「フランス」・・・ベルバラの影響でフランス語を今でも習っています(仏検準一級!)
「演劇」・・・高校三年間は演劇部にどっぷりでした

  はじめての東京

今から振り返ると、今の私はまさしくこの時代に形成されたといっても過言ではありません。
そして大学進学のため上京。初めての東京、都会です。

今のように、ネットも携帯もありません。
情報量としては、都会と田舎には格段の差がありました。
初めての都会で、私は萎縮しました。

「都会」・・・私は田舎者

その思いは、今でもどこか心の片隅にあるように思います。

でも、大学時代は楽しかった!女子大だったので女ばかりですが、たくさんの友達に恵まれ、それは今の私の財産となっています。

  そして社会人へ

東京への憧れが続き、山口に帰らず東京でそのまま就職しました。

時はバブル。ジュリアナ(懐かしい!)やお立ち台など、主に若者が浮かれていた時代でしたが、私が就職した先は、そのバブルのあおりをうけ、大変忙しいところでした。
なので、私は入社当初から、周囲の華やかさを横目に、仕事、仕事、そして残業。

そのころはまだ男女機会均等法のはしり、まだまだ女性が第一線でバリバリ、というのはめずらしく、わたしも営業のアシスタントでしたが、仕事はとても楽しかったです。
自分がすることで、担当の営業マンが喜ぶのが嬉しかった。
それは、私の仕事の基本スタンスになっています。

でもなにしろ忙しかった。
そのストレスがすべて「食」にいってしまい、やつれるはずが、どんどん太っていってしまいました。

同期が次々と寿退社をしていく中で、気が付くと、彼もおらず、仕事にあけくれる日々。
実は寿退社を目指してその会社を選んだ私は、ここで自分の容姿や性格に自信をなくしていきました。

  大きな挫折

「彼氏できない」・・・女性として人間として魅力がない

結局15キロぐらい太ったでしょう。でも止められない私。

それと比例して、結婚願望は高まっていきました。
そのころは、今のように「妊活」ではありません、「見合い」です。
でも終末とはいえバブルの時代、お見合いなんてする人はよっぽどの人、のような世間の目を感じつつも、両手両足の指では足りないくらいしました。

でも全然だめ・・・

それは私にとって、正直大きな挫折でした。
私のどこが悪いんだろう。性格がゆがんでいるんだろうか?外見?全部?

他人からすればたいしたことのない問題だったかもしれません。
ただのタイミングとも言えるし、そもそも一人だからって、なんの支障がある?

  結婚への憧れ

でも私は彼氏がほしかった、結婚したかった。

そして挙句の果てには、人をうらやんだり、人に当たったり、泣いたり、誰も私の気持ちをわかってくれない、と嘆いたり・・・このとき、願っても叶わないことがあると実感しました。
また、自分の醜さも思い知ったように思います。

それでも一つ思いつきました。
それが「ダイエット」です。
太っているから結婚できないのでは?と思ったのです。
(おそらく本当はそんなことじゃなかったのだろうけど・・・)

それまでも、何度かダイエットにチャレンジしましたが、いつも三日坊主。
でも今回は気合が違います。自分的には背水の陣です。
家族の協力も得ながら頑張り、一年で7キロ落としました。

その甲斐あってか、今の主人と結婚。
めでたく願いが叶ったのでした。

  子供が、ほしい・・・

それから月日がたち、私たちは結婚5年目を迎えていました。
その間子供の話は出ず、お互いに仕事に趣味にと忙しくしていました。
しかし35歳を過ぎたころ、突如私は子供がほしくなってきたのです。
今思うと、それは本能からの問いかけだったのかもしれません。「ねえ、本当にそれでいいの?」

そこで、主人に話しました。もちろん期待をこめて。
でも返ってきた言葉は「もういまさらいいんじゃない・・・」びっくりしました。
「え、なんで?どうして?」そして怒りがわいてきました。
「私だって子供が産みたい!」
抗議の手段がほかに思い浮かばず、私は家を出てホテルを転々としました。仕事をしていたので、それを放り投げて実家に帰ることはできません。
職場とホテルとの往復です。そのうち、主人が折れて、子供を作ろう、と言い出してくれるだろうと期待していましたが、結局待てどくらせどその言葉は出ず、とうとう根負けし、家に戻りました。

それからも何度か話し合いましたが、主人は首を縦に振りませんでした。わたしも疲れてしまいました。
かといって、いまさら配偶者を変える、という気概もなく、結局、流れのままに年だけ重ねていき、私の熱意も徐々にしぼんでいきました。

私が悪かったのだと思います。
結婚したときに、子供のことについてきちんと話をすればよかったし、自分に都合よく、ほしいと思ったときにできるわ、なんてそんな虫のいい話はないということに、早く気づくべきだったのです。

そして一番の気づきは、子供は夫婦の意思統一がなければできない、という最も基本的なことでした。
わたし一人が頑張っても、絶対無理。

ここでも、頑張っても叶わないことがあるということを、また知ったのでした。

  私は女性として失格なの?

その後、私は「家族」という言葉を避けるようになりました。
「家族」とは、夫婦と子供が単位、と勝手にイメージしていたからです。

そして、「私は子供に育てられている」「子供を育ててこそ本当の大人」的な話に過剰反応するようになりました。
また、ショッピングセンターで遭遇する「家族」を見るのが嫌でした。
更には、自分の女性性に疑問を抱き始めました。

私は女性として失格なのではないか。
女性として生まれてきたのに、その責務を果たさないで一生を終わるのか。

それでも毎日生きていかなくてはなりません。
目の前にある仕事、やるべきこと。それらを一生懸命やっていくうちに、だんだん気持ちが落ち着いてきて、ほとんどといっていいほど、子供のことは考えなくなりました。
それでも波風が立たなくなるまで、数年はかかりましたが。

そうこうするうちに、主人の転勤で神戸に引越し、そこで今の「ながいきや本舗」と出会うのですが、入ったころは、総務一般。全体の補佐の仕事です。
でも実は一番好きで得意な仕事。大変なところもあったけど正直お気楽でした。

赤ちゃんを望まれる女性たちのために

それがガラッと変わったのが3年前です。
「ながいきや本舗」の担当者が突然退社。男性ばかりの会社で残った女性は私一人。
その日から、ネットで電話で直にお客様対応です。
正直そのころ、私は商品知識だけでなく、そもそもの生殖の仕組みをまったく知りませんでした。
学校で習ったのかもしれませんが、とにかく知識ゼロ。不妊治療の知識なんて、さらにゼロ。
それでは当然、お客様とお話ができません。

そこから勉強の始まりです。
からだのしくみ、生殖のしくみ、ホルモンの流れ、商品のこと、不妊治療の内容、その上に、ネット通販の知識・・・
覚えることは山のようにあり、かつ、もともと文系の私、医学的、生物学的、数字など理系なことばかりで、本当に四苦八苦でしたが、周囲のサポートもあり、徐々に進んでいくことができました。

その中で感じたのが、赤ちゃんを望まれる方々の閉塞感でした。
誰にもいえない、言ってもわかってもらえない、周囲の目、親の考え・・・いろいろな壁があり、閉じこもらざるを得ない女性がなんと多いことか。

おりしも、国際調査が発表され、日本が一番不妊をオープンにできない国だということがわかりました。

それは私にとって、大変なショックでした。日々お客様との話の中でわかっていたにもかかわらず、です。
なぜ、一番祝福されるべきはずの妊娠・出産に向かって努力している女性たちが、こんなに苦しまなくてはいけないの?と。
とてもとても悲しかった。

そこから本当に、私たちは、赤ちゃんを望まれる女性たちが毎日元気で楽しく過ごせるお手伝いをしようと、そこに向かって進んでいこうと決意したのです。

子供がいても、いなくても幸せ。

でも一方で思うのが、子供がいなくてもしあわせ、ということ。
そう、現に私がそうだから。

事情は違うけれど、私には子供がおらず、でも今すごく楽しいです。
もし子供がいたら、絶対ながいきや本舗の活動はしていませんでしたし、そもそも働いていなかったでしょう。

私の母の昔からの口癖は「人生、起こること無駄なし。すべて必然」ですが、ここまで来て、私もそう実感しています。

これでよかったのだと、本当に思います。
こうして、ながいきや本舗にめぐり合ったのは、私の運命だし、私の今生の役目であると思っています。

本当にしあわせの形はさまざまです。子供がいても、いなくても幸せ。
ただ、後悔しないようにしてほしい、それだけです。
そして、自分が悩んで悩んで出した決断は、絶対に間違ってない。

悲しむ女性を増やしたくないから

2012年に不妊カウンセラーの資格を取りました。
ここ数年、メディアが不妊治療を取り上げることも多くなり、一般社会にも知られるようになりましたが、でもまだまだ、女性たちは悩み悲しんでいます。
そんな女性たちに、まずは自分の気持ちを吐き出したり、話すことで少しでも自分を解放できる場を提供したい、その思いでとった資格です。

また、生殖の知識はまだまだ普及していません。
その知識がないために、子供のことを先送りして後悔してる女性もたくさんいます。
私たちながいきや本舗は、女性たちの声を聞くとともに、生殖の知識の啓蒙活動にも取り組んでいきたいと考えています。

結局、決めるのは自分です。
選ぶのはお客様です。
ただ、知らなくてあとで後悔することだけは、避けてほしいのです。

私達たちながいきや本舗はそんな女性の悲しみを増やさないよう、正しい情報、エビデンスのある商品をご紹介し、女性たちの生の声に寄り添いながら、これからも活動していきます。

松村恭子

日本不妊カウンセリング学会認定不妊カウンセラー
TCカラーセラピスト


しあわせの形はさまざま。子供がいても、いなくても幸せ。
ただ、後悔しないようにしてほしい。

はじめまして。
ながいきや本舗の店長、松村恭子と申します。

「ながいきや本舗」と聞いて「長寿」を連想される方も多いと思いますが、実は私たち「ながいきや本舗」は、赤ちゃんを望まれている女性やそのパートナーのQOL(Quality Of Life)向上のために、商品や情報をお送りしているお店です。

そして、私たちながいきや本舗のモットーは「しあわせになること」。

もちろん、赤ちゃんを授かるということは、とっても素敵なこと。
世界共通、民族、国を超えて喜びが共有できる、唯一のことかもしれません。
だから、私たちもそのために全力でお手伝いをしたいと思い、日々活動しています。

でも、もし赤ちゃんが授からなかったら・・・

私たちは、それも「しあわせ」だと思っています。

しあわせの形はさまざまです。
子供がいてもしあわせ、いなくてもしあわせ。

とにかく、どんな形であれ、皆さんにしあわせになってもらいたい、そういう思いをこめて「しあわせになること」をモットーとしています。

なぜそう思うのか・・・それは実は、今の私がそうだから、です。

  両親のふるさと、山口へ

少し私、松村の自己紹介をさせていただきます。

私が生まれたのは、昭和41年、西暦で言うと1966年。
おわかりですか?そう、丙午です。
この年は「ひのえうま(丙午)の年に生まれた女性は気が強く、夫を食い殺す」として、出産が避けられた年で、出生率が増加していた中、ここだけがみごとにくぼんでいます。
でもうちの両親は、それをものともせず、私を生みました。

生まれたのは、実はあの有名な宝塚歌劇の宝塚ですが、
3歳のときに両親のふるさとの山口に帰ったので、私の宝塚の記憶は
ほとんどありません。そのころは関西弁を話していたようです。
でももし、そのまま宝塚に残っていたら、私の性格も運命も全然違っていたものになったでしょう。

山口に帰り、再び山口を離れるまでの小・中・高校時代、私はまったくの田舎の子として、元気に育っていきました。とはいえ、運動が苦手でどちからというとインドア、娯楽もない土地柄でしたので、よく勉強していたように思います。それでも、熱狂したものがあります。

それが「山口百恵」と「ベルサイユのバラ」そして「ガラスの仮面」でした。
そしてこの3つは、その後の私に大きな影響を及ぼしました。

「歌」・・・そこそこ上手です。
「フランス」・・・ベルバラの影響でフランス語を今でも習っています(仏検準一級!)
「演劇」・・・高校三年間は演劇部にどっぷりでした

  はじめての東京

今から振り返ると、今の私はまさしくこの時代に形成されたといっても過言ではありません。
そして大学進学のため上京。初めての東京、都会です。

今のように、ネットも携帯もありません。
情報量としては、都会と田舎には格段の差がありました。
初めての都会で、私は萎縮しました。

「都会」・・・私は田舎者

その思いは、今でもどこか心の片隅にあるように思います。

でも、大学時代は楽しかった!女子大だったので女ばかりですが、たくさんの友達に恵まれ、それは今の私の財産となっています。

  そして社会人へ

東京への憧れが続き、山口に帰らず東京でそのまま就職しました。

時はバブル。ジュリアナ(懐かしい!)やお立ち台など、主に若者が浮かれていた時代でしたが、私が就職した先は、そのバブルのあおりをうけ、大変忙しいところでした。
なので、私は入社当初から、周囲の華やかさを横目に、仕事、仕事、そして残業。

そのころはまだ男女機会均等法のはしり、まだまだ女性が第一線でバリバリ、というのはめずらしく、わたしも営業のアシスタントでしたが、仕事はとても楽しかったです。
自分がすることで、担当の営業マンが喜ぶのが嬉しかった。
それは、私の仕事の基本スタンスになっています。

でもなにしろ忙しかった。
そのストレスがすべて「食」にいってしまい、やつれるはずが、どんどん太っていってしまいました。

同期が次々と寿退社をしていく中で、気が付くと、彼もおらず、仕事にあけくれる日々。
実は寿退社を目指してその会社を選んだ私は、ここで自分の容姿や性格に自信をなくしていきました。

  大きな挫折

「彼氏できない」・・・女性として人間として魅力がない

結局15キロぐらい太ったでしょう。でも止められない私。

それと比例して、結婚願望は高まっていきました。
そのころは、今のように「妊活」ではありません、「見合い」です。
でも終末とはいえバブルの時代、お見合いなんてする人はよっぽどの人、のような世間の目を感じつつも、両手両足の指では足りないくらいしました。

でも全然だめ・・・

それは私にとって、正直大きな挫折でした。
私のどこが悪いんだろう。性格がゆがんでいるんだろうか?外見?全部?

他人からすればたいしたことのない問題だったかもしれません。
ただのタイミングとも言えるし、そもそも一人だからって、なんの支障がある?

  結婚への憧れ

でも私は彼氏がほしかった、結婚したかった。

そして挙句の果てには、人をうらやんだり、人に当たったり、泣いたり、誰も私の気持ちをわかってくれない、と嘆いたり・・・このとき、願っても叶わないことがあると実感しました。
また、自分の醜さも思い知ったように思います。

それでも一つ思いつきました。
それが「ダイエット」です。
太っているから結婚できないのでは?と思ったのです。
(おそらく本当はそんなことじゃなかったのだろうけど・・・)

それまでも、何度かダイエットにチャレンジしましたが、いつも三日坊主。
でも今回は気合が違います。自分的には背水の陣です。
家族の協力も得ながら頑張り、一年で7キロ落としました。

その甲斐あってか、今の主人と結婚。
めでたく願いが叶ったのでした。

  子供が、ほしい・・・

それから月日がたち、私たちは結婚5年目を迎えていました。
その間子供の話は出ず、お互いに仕事に趣味にと忙しくしていました。
しかし35歳を過ぎたころ、突如私は子供がほしくなってきたのです。
今思うと、それは本能からの問いかけだったのかもしれません。「ねえ、本当にそれでいいの?」

そこで、主人に話しました。もちろん期待をこめて。
でも返ってきた言葉は「もういまさらいいんじゃない・・・」びっくりしました。
「え、なんで?どうして?」そして怒りがわいてきました。
「私だって子供が産みたい!」
抗議の手段がほかに思い浮かばず、私は家を出てホテルを転々としました。仕事をしていたので、それを放り投げて実家に帰ることはできません。
職場とホテルとの往復です。そのうち、主人が折れて、子供を作ろう、と言い出してくれるだろうと期待していましたが、結局待てどくらせどその言葉は出ず、とうとう根負けし、家に戻りました。

それからも何度か話し合いましたが、主人は首を縦に振りませんでした。わたしも疲れてしまいました。
かといって、いまさら配偶者を変える、という気概もなく、結局、流れのままに年だけ重ねていき、私の熱意も徐々にしぼんでいきました。

私が悪かったのだと思います。
結婚したときに、子供のことについてきちんと話をすればよかったし、自分に都合よく、ほしいと思ったときにできるわ、なんてそんな虫のいい話はないということに、早く気づくべきだったのです。

そして一番の気づきは、子供は夫婦の意思統一がなければできない、という最も基本的なことでした。
わたし一人が頑張っても、絶対無理。

ここでも、頑張っても叶わないことがあるということを、また知ったのでした。

  私は女性として失格なの?

その後、私は「家族」という言葉を避けるようになりました。
「家族」とは、夫婦と子供が単位、と勝手にイメージしていたからです。

そして、「私は子供に育てられている」「子供を育ててこそ本当の大人」的な話に過剰反応するようになりました。
また、ショッピングセンターで遭遇する「家族」を見るのが嫌でした。
更には、自分の女性性に疑問を抱き始めました。

私は女性として失格なのではないか。
女性として生まれてきたのに、その責務を果たさないで一生を終わるのか。

それでも毎日生きていかなくてはなりません。
目の前にある仕事、やるべきこと。それらを一生懸命やっていくうちに、だんだん気持ちが落ち着いてきて、ほとんどといっていいほど、子供のことは考えなくなりました。
それでも波風が立たなくなるまで、数年はかかりましたが。

そうこうするうちに、主人の転勤で神戸に引越し、そこで今の「ながいきや本舗」と出会うのですが、入ったころは、総務一般。全体の補佐の仕事です。
でも実は一番好きで得意な仕事。大変なところもあったけど正直お気楽でした。

  赤ちゃんを望まれる女性たちのために

それがガラッと変わったのが3年前です。
「ながいきや本舗」の担当者が突然退社。男性ばかりの会社で残った女性は私一人。
その日から、ネットで電話で直にお客様対応です。
正直そのころ、私は商品知識だけでなく、そもそもの生殖の仕組みをまったく知りませんでした。
学校で習ったのかもしれませんが、とにかく知識ゼロ。不妊治療の知識なんて、さらにゼロ。
それでは当然、お客様とお話ができません。

そこから勉強の始まりです。
からだのしくみ、生殖のしくみ、ホルモンの流れ、商品のこと、不妊治療の内容、その上に、ネット通販の知識・・・
覚えることは山のようにあり、かつ、もともと文系の私、医学的、生物学的、数字など理系なことばかりで、本当に四苦八苦でしたが、周囲のサポートもあり、徐々に進んでいくことができました。

その中で感じたのが、赤ちゃんを望まれる方々の閉塞感でした。
誰にもいえない、言ってもわかってもらえない、周囲の目、親の考え・・・いろいろな壁があり、閉じこもらざるを得ない女性がなんと多いことか。

おりしも、国際調査が発表され、日本が一番不妊をオープンにできない国だということがわかりました。

それは私にとって、大変なショックでした。日々お客様との話の中でわかっていたにもかかわらず、です。
なぜ、一番祝福されるべきはずの妊娠・出産に向かって努力している女性たちが、こんなに苦しまなくてはいけないの?と。
とてもとても悲しかった。

そこから本当に、私たちは、赤ちゃんを望まれる女性たちが毎日元気で楽しく過ごせるお手伝いをしようと、そこに向かって進んでいこうと決意したのです。

  子供がいても、いなくても幸せ。

でも一方で思うのが、子供がいなくてもしあわせ、ということ。
そう、現に私がそうだから。

事情は違うけれど、私には子供がおらず、でも今すごく楽しいです。
もし子供がいたら、絶対ながいきや本舗の活動はしていませんでしたし、そもそも働いていなかったでしょう。

私の母の昔からの口癖は
「人生、起こること無駄なし。すべて必然」
ですが、ここまで来て、私もそう実感しています。

これでよかったのだと、本当に思います。
こうして、ながいきや本舗にめぐり合ったのは、私の運命だし、私の今生の役目であると思っています。

本当にしあわせの形はさまざまです。子供がいても、いなくても幸せ。
ただ、後悔しないようにしてほしい、それだけです。
そして、自分が悩んで悩んで出した決断は、絶対に間違ってない。

  悲しむ女性を増やしたくないから

2012年に不妊カウンセラーの資格を取りました。
ここ数年、メディアが不妊治療を取り上げることも多くなり、一般社会にも知られるようになりましたが、でもまだまだ、女性たちは悩み悲しんでいます。
そんな女性たちに、まずは自分の気持ちを吐き出したり、話すことで少しでも自分を解放できる場を提供したい、その思いでとった資格です。

また、生殖の知識はまだまだ普及していません。
その知識がないために、子供のことを先送りして後悔してる女性もたくさんいます。
私たちながいきや本舗は、女性たちの声を聞くとともに、生殖の知識の啓蒙活動にも取り組んでいきたいと考えています。

結局、決めるのは自分です。
選ぶのはお客様です。
ただ、知らなくてあとで後悔することだけは、避けてほしいのです。

私達たちながいきや本舗はそんな女性の悲しみを増やさないよう、正しい情報、エビデンスのある商品をご紹介し、女性たちの生の声に寄り添いながら、これからも活動していきます。

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